カフェ・ポート・ブルックリン閉店の理由をオーナーの関根さんに伺いました

突然の閉店

2024年3月末に突然の閉店を発表したカフェ・ポート・ブルックリンさん。「あんなに人気なのに、なんで?」「ショック…」と、こまごめ人達に衝撃を与えたニュースでした。

こまごめ通信編集部も疑問に思ったので、関根さんに聞いたところ、たくさんの思いを語っていただきました。紹介いたします。

参照記事

撤退の理由

皆様にとっては突然のカフェ・ポート・ブルックリン(以下:ブルックリン)閉店のニュースでビックリされたことと思います。驚かせてしまってごめんなさい。

まず、「なんで!?」と思っている方が多いかと思うんですが、一言で言うと『家賃』です。

この場で具体的な金額を申し上げることはできないのですが、かなり上がることになりました。不動産会社様とも交渉はしましたが、折り合いつかず、残念ながら「ビジネスにならない」「事業性がない」「やるだけみんなが不幸になる」と判断し、撤退を決めました。

ブルックリンは僕にとっては、人生初の独立店であり、記念すべき1号店でもあるので、非常に残念な思いです。

最初はただの‘’憧れ‘’からスタート

ブルックリンがどういった経緯で出来上がったか、備忘録的に書いていこうと思います。宜しければお付き合いください。

ブルックリンの始まりは、遡ること今から17年前、まだ大学2年の頃、僕のシンプルな‘’憧れ‘’からスタートしてます。就職活動に影響を与える、学科のコース選択のときに『起業家って何かカッコいい!』とか思っていた僕はホスピタリティ・マネジメントコースを専攻。

レポートをカフェで書き上げていた僕は、バリスタの俊敏ながら落ち着いた動き、カフェ全体のゆったりした雰囲気がすごく気に入り、『起業するなら、自分で理想とするカフェをやってみたい!』と思い、大学3年のときに資金集めのために起業をしました(これが今の会社です)。

が、見事に失敗をして、借金だけつくり、尻尾を巻いて逃げるように実家に帰ることになりました。

当時はお金のことで頭が一杯で、ご飯を食べてもゴムを食べてるみたいで全然味がしませんでした。スーパーで60円のあんパンすら買えなかった時期でした。友人たちは社内で昇進したり、結婚したり、子供ができたり、家を買ったりしていて、自分はなんて情けない生き方をしてるんだろう、死んだ親父にも顔向けできないとか感じていたんですが、荷物も片付けて実家に帰って久しぶりに母の手作りのご飯を食べたときに、これが涙が出るほど美味しかった。

そのときに恥ずかしながら頭の悪い僕は初めて実感として気づいたんです。『人のためにならないと事業なんかやってもうまくいくわけないよな』と。

修行開始

ボロ雑巾みたいになったけど、やっぱり『カフェやりたい』という気持ちは変わっていなくて、まずはコーヒーのこととか、お店の運営の仕方とか色々勉強したいなと思い、このタイミングでシアトルズベストコーヒーというカフェで働き始めました。

オーダーシートが大量に並ぶとお客さんを目の前にしながら頭が真っ白になってしまい、ミルクはこぼすわ、順番間違えるわで散々でした。先輩にも『いるだけ邪魔だからバックルーム引っ込んでろ』と言われ、最初はカフェの仕事向いてないなとか絶望感満載でした。

しかし、1日1日できることを増やし、積み重ねて、コーヒーマイスターの資格もとり、店長をやり、エリアマネージャーをやり、失敗と成功を積み重ねながら、店舗運営・新規出店のノウハウをどんどん学んでいきました。

30歳になったときに、『チャレンジするならもうここが最後のチャンスだ』と思い、会社を辞めました。

コンセプトづくりと物件探し

不動産会社のサイトに8つぐらい登録をして、そこから毎日物件探しをしました。一駅一駅降りて、道の一本一本に入り、半年ぐらいかけて16,000件ぐらいは物件をチェックしたと思います。

その間は店のコンセプトづくりに時間を費やしました。大学時代に学んだホスピタリティ・マネジメントは、異文化同士の者達が交流を通して、競争から共創をつくっていくという志向性を持つ経営概念だったので、『交流』を中心軸にコンセプトを考えました。

現代社会が持つ様々な課題は、異なる領域・分野の者同士が協力して課題解決をはからないとクリアーできない程複雑化しています。そういう意味で、異文化が出会う場所というのは課題解決に向かうためのスタート地点になると考え、実際的に異文化が出会うのは『港』だよなと思い、店名に『port』を入れました

更に、どんな港にするか?ということで、多種多様な文化がごちゃ混ぜながら、常に新しい価値観やモノ、サービスを創り出している『ブルックリン』をイメージしました。

ブルックリンは元々ただの倉庫街で、ニューヨークには住めない若手のアーティストや起業家たちが集まっていた場所でしたが、あの『私はこれをやりたい、つくりたい』が集まった空気感というのは、熱があり、昂りがあり、新時代的で、今の日本にはないエネルギーでした。そのエネルギー感のあるブルックリンの町が好きで、店名は『カフェ・ポート・ブルックリン』となりました。

物件を探しはじめて4ヶ月くらいたったぐらいだったかと思いますが、なかなか思うような物件が見つからず、半ば諦めにも似た気持ちを抱き始めた頃に、一本のメールが届きました。『駒込居抜き』と書いてある。駒込?それまで『駒込』という地名を聞いたことのなかった僕は思わずGoogleマップで場所を確認しました。

そのメールを見たのは深夜の2時くらいでしたが、そのまま3時間くらい寝た後、始発に乗って駒込に物件確認に。

外からちょっと覗いた後は、ずっと正面にあったコンビニの前で缶コーヒー片手に、通行人数を数えました。手帳に『正』の字を書いて、そのまま1日終電まで数えました

その人数を基に1日あたりの売上予測や季節変動要因も含めた年間収支を出してみたりして、なんとかなりそうだと判断し、すぐに入居の申し込みをしました。

開店準備

そこから、契約書面のやりとりやら説明やらがあり、色々と開店準備を進めました。

水道はすぐに使えるようになりましたが、電気がすぐには通らず、雪の降る中、凍るような冷水で掃除をしました。

開店日も近くなると、準備も佳境を迎え、徹夜で作業を進める日が続きました。床に段ボールを敷いて、カバンを枕に、上着を布団がわりにして、店で仮眠をとりながらやっていたのですが、同じビルの上の階に住んでいる方がシャワーを貸してくれたり、隣のお蕎麦屋さんは缶コーヒーとクッキーを差し入れてくださったりしました。

真上のレストラン(CUCINA Pulcino)の方もお祝いにと言って、ボトルワインをくださったり。

開店準備は大変でしたが、早速駒込という街に住む方々のあたたかい優しさを頂き、じんりと胸があたたかくなるのを感じました。

街との関わり

いよいよ、開店となりましたが、最初はやはり認知度も低く、我々も思うようなサービス、ホスピタリティが提供できず、苦戦しました。

しかし、メニューを変えたり、街の人たちとの関わりが増えるにつけ、徐々に売上も安定していきました。

こまごめ通信に載せて頂いたり、音楽をもっと身近なものにして街に根付かせたいという方(Encounter with Musicのやまびあやかさん)とジャズライブをやったり、店でナン冊(七夕の短冊のナンverみたいなやつ笑←今も巣鴨店に飾ってある)をつくったりサンカクシャの若者と語り合ったり、こまごめビールプロジェクトに参画したり、色々なコラボイベントをやらせて頂きました。

街の皆様とも、たくさん思い出ができました。

雨の日でも雪の日でも台風の日ですら、本当に毎日のように足を運んでくれるおじいちゃんがいたり(このおじいちゃんとはいつも政治経済と国際情勢の話をしていた)、海外に引っ越し前「最後に食べに来たかった」と引っ越し日当日に時間ギリギリの中で来てくれる人がいたり、中学時代の友人と偶然再会したり、病気で亡くなる直前に最後に来たいからと車椅子でオレンジジュースを飲みに来てくれるおばあちゃんがいたり、今はもう引退したけど以前ニューヨークで仕事していたという人が懐かしがって来てくれたり、入籍前の家族同士の顔合わせで来てくれたご家族がいたり、ここには書ききれませんが、本当にたくさんの思い出があります。皆様のお役に立てていたら嬉しいのですが、本当にありがとうございました。

スタッフとの関わり

開店以来、多くのスタッフが出たり入ったりしてきましたが、みな力をかしてくれて、僕は助けられまくりました。

経営者として徳も知も浅かったせいで、たくさん苦労をかけてしまったように思います。

それでも同じ船に乗ってくれて、ついて来てくれて、一緒に色んな苦労を乗り越えてくれました。メニューをもっと大胆に変えた方が良いんじゃないか、レシピを変えた方が実はもっと美味しくできるんじゃないか、サービスの仕方を改善すべきではないか、オペレーションが曖昧な部分があるんじゃないか、関根さん体力あり過ぎてチートではないか、等々成長のための色んな意見を出してくれ、常に進化し続けることができました。、、、最後のは関係ないか(笑)

でも、色々御託は並べられるけど、僕はシンプルに同じ釜の飯を食う仲間がいることが嬉しかったなと思います。

これからのこと

しばらくは2号店のカフェ・ポート・グラスゴー巣鴨店一本で頑張ります。でも、ブルックリンは必ずどこかで復活させたいと思います。

今回は形としては、一歩下がるような格好にはなりますが、だからといって火が途絶えるわけではありません。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、飲食業に代表される『レストラン』の語源は『回復させる』(restore)です

『食事』と『交流』を通して、人が回復する=元気になる、そういう人が増えれば新しい動きが生まれて、地域一体が元気になる、その機運が日本全体に波及すれば、この国は今より明るく力強くなれる。

その飲食業としての本質的な使命を果たしていきたいと思っています。

これからも回復拠点としての“港シリーズ”のカフェを、足元をしっかり固めながら、ときには跳び跳ねて、広げていきたいと思います。皆様、今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。

関根健人

こまごめ通信編集部・織田より>セキネコさんの作る港は、これからどんどん増え、たくさんの人が行きかう場所になると思います。たくさんの港が、日本中、世界中に作られていく未来が私には見えています。その最初の港が、こまごめにあったことを、こまごめ通信は伝えていきます。海のないこまごめに港を作ってくれてありがとう、セキネコさん!また巣鴨で。

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